ある二等兵の死

 澤 井 山 帰 来 (下市町)

 レントゲン室の兵隊がさわいでいるので、士官室を出ていってみると、花嫁姿の女の写真をとりあいしている。なかなかの美人で、誰かに似ているなと思った。それは北原二等兵の新妻で北原は結婚式を挙げて、すぐ応召してきたのだという。柳川の旧家の出で、長崎医大のれんとげん室に長く勤めていて、レントゲンのことは、じつに詳しい。深部治療のことなど、ずいぶん教えてもらった。

 ある土曜の午後、私は北原に鞄を持たせて、病院の営門を出た。西鉄の柳川終点で降りて、「北原、明日の午後二時半に此処へ来る。それまで自由行動を許す」。北原は挙手の礼をして駈け足で立去った。
 私は水郷柳川の岸を歩いて、俳句など作った。日が傾いて、空腹を覚えたので、どこかに宿は無いものかと、歩いていると、一軒の百姓家から、とても明るい笑い声が聞こえてきた。垣根の外に佇んで、しばらくそれを聞いていた。
 大津から小倉、小倉から福岡と、かれこれ四年近く、家庭というものから離れている自分が、今更のように思いみられるのであった。そこへ二つの提灯が近づいてきた。一つは北原二等兵、もう一つはその祖父君であった。そして、明るい笑い声の農家は、祖父君の弟さんの家であった。そこの離座敷に通されて、色々ともてなしをうけて、泊めていただいた。どぶろくというものを初めて御馳走になったがじつにうまいと思った。

 翌日は約束通り、祖父君が舟を用意して待ってくれていた。そして水郷柳川をくまなく見せてもらつた。関東の水郷潮来ほどの規模はないが、北原白秋の生家の酒倉などが映っていて、大いに句心を刺激された。
 昼になって、北原の家の座敷に通された。鴨居には明治天皇、皇后両陛下の御真影が掲げられ、その隣の陸軍一等兵の写真は、北原二等兵の父君で、ノモンハンで、名誉の戦死をされたとのこと。それで北原の母君は、北原をお祖父さんの下において、他家へ再婚したという。私は銃後の哀しい事情を思い戦争の大きな傷跡が、ここにもあると思い知らされるのであった。

 そこへ、北原夫人が御馳走を運んで来て、「軍医殿、小倉ではお世話になりました。」という。花嫁姿の写真では分らなかったが、たしかに小倉陸病のレントゲン室に一年間いたとき、日赤救護班の看護婦で、内科病棟と、レントゲン室を連格するのが役目の彼女とは毎日のように顔を会わせていた。またたく間に時間がたち、沢山の土産を提げた北原を従えて病院へ帰った。

 その頃、満州から引上げて釆られた軍医少将が病院長となられた。これがめずらしいことに、大学の前身専門学校時代の卒業生で、お互に奇遇を喜びあった。
 ある日私は北原の家庭の事情を話し、病院長にお願いして、北原二等兵を特別に召集解除してもらった。北原は皆に羨ましがられて、柳川へ帰っていった。

 広島と長崎の二発の原爆で、多数の犠牲者を出して戦争は終結した。その後、陸軍病院は国立病院となり、千名余りの傷病兵を残して、兵隊も看護婦も召集を解かれた。病院長のたっての頼みで、私は厚生省技官となり副院長に任じられた。医官は若い短期現役の医師が多数いてくれるのでよかったが、困ったのは看護婦である。
 県庁を通して、広く募集をしたところ、第一番に応募してきたのが北原の妻君であった。聞くと北原は、召集解除されて、元の長崎医大のレントゲン室へ勤めていたが、あの原爆で亡くなられたと。私はそれを聞いた瞬間、頭から冷水をあびせられたかと思った。余計な小細工をした為に、北原は原爆で死んだ。終戦まで病院においてやれば…原爆に会うこともなかったのだ。私は心の中で何度も「許せ、北原」「許せ、北原」と叫んだ。  

(会員投稿頁より)


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