私は医者になって二十年以上になりますが、この間研修医の数年を除いてはほとんど心臓の専門医として医療に従事してきました。そもそも心臓の医者になったのは、心臓には癌がほとんど無いからです。そのためか、この二十年で死を看取った方の数は、五十人余りにしかなりません。 ところが、一昨年の春開業してからは亡くなる方が多くなりました。 一つには癌の方を見るようになった事です。もう一つは、私たちの診療所では在宅診療をやっており、寝たきりのお年寄りや、癌の末期の患者さんを在宅で診る機会が多くなったためです。そこで、最近話題になりましたベストセラーの本ではありませんが、病院で死ぬ事と、家で死ぬ事との意味を考えるようになりました。
私自身は出来る事ならば家で、それも子供や妻に見送られて死にたいと思います。そして、いままでの人生がたいへん幸せであったと家族に伝え、一言礼を言ってキザに死にたいと思っています。これが、死ぬ者の尊厳というものかも知れません。
病院でも家族に囲まれて死んでいく事は出来ます。しかし、何もしないで医者が死に行く患者さんの枕元に立つのは、医者であれば返って相当の努力が要ります。無駄な抵抗を試みて頭の停止した忙しいだけの数時間を過ごす方がずっと楽です。医者にとって自分の寄って立つ存在意義が、患者の死と戦い少しでも生きている姿に戻そうとするものである限りは、死に行く人の前で何もしない事が、医者の存在そのものを脅かすように思えるからです。
臨終に立ち会う家族にも同じ事が言えます。末期患者の在宅医療は、言い替えれば、病院でならやれる治療を前もって拒否するものです。従って、それなりの覚悟が必要です。血圧が下がっても、昇圧剤は使わない。食べられなくなっても、高カロリー輸液はやらない。心停止があっても救命蘇生はやらない。疼痛に対しての治療も自ずと限界がある。
ところが、最近ではほとんどの家のすぐ近くに、高度の治療を受けることの出来る病院がありますから、そのような治療行為を簡単には諦められません。まして、今まさに死にそうな肉親を前にしている家族には、一旦は覚悟をしていても迷いのもとになります。このような在宅治療の限界を、家族があらかじめ十分知っておかないと、在宅死で納得することはなかなかできません。 その上、人的、経済的制約が加わって更に問題を難しくしています。したがって、しずかな自宅での臨終は、考えるほどに容易なものではありません。
開業して以来二年余りの問に、合計二十五人の方が在宅診療中に亡くなっておられます。癌の方が九名、中枢神経系疾患が十二名、心疾患が三名、老衰が一名です。自宅で亡くなられた方は十六名でした。中枢神経系の方はほとんどの方が多発性脳梗塞で、八十才を越える方が大部分でしたが、癌の方は六十才代の方も二名おられました。
最近自宅で亡くなられた男の方は、腎臓の癌で腰の骨に移転して痛みが激しい状態で退院され、自宅で療養を続けられました。一ヶ月の後、肝臓を中心に腹部に腫瘍が盛り上がってきて、腹水や全身の浮腫が出現し、ついには水を飲む事も出来ないようになり、点滴も十分に出来ず、最後は衰弱して亡くなられました。年は六十才代で、子供さんが五人おられ、まだ上の二人の男の兄弟が結婚しているだけのようでした。普段はお母さんが一人で看病に当たっていましたが、亡くなられる前には子供さん達全員が来られていました。骨に転移するほどで苦しみが長く続き、医者の常識からすれば、最後に意識が薄れ痛みを感じずに亡くなられる事は不幸中の幸いかと考えましたが、残される兄弟達は、息の引き取る直前まで声をかけていました。
次第に息が止まる、無呼吸の間隔が良くなって行くのですが、止まりかけると五人全員でお父さんと大声を出して呼びかけるのです。その必死さは、私の心の中にまで響きました。癌という不治の病である事は何度も説明を聞いて分かっているのでしょうが、いざ、目の前で愛する肉親が息を引き取ろうとするとき、少しでも一分でも長く生きていてほしいという思いが、沸き上がってくるのだと思います。
患者さん自身からすれば、苦痛だけの続く闘病の生活は、一日も早く終わってほしいと望まれるかも知れません。しかし、肉親は、たとえ一秒でも生きた証拠が見えるままで、居てほしいと願うものでしょう。死に行く者からすれば無意味な最後の数日であっても、残される者にすれば何にも替え難い貴重な数日なのだと痛感しました。この逝く人と残される人達との認識のズレが、専厳死の問題を難しくしている要因の一つだと考えます。ボケで寝たきりになり、ついには植物化してしまって、家族に手をかけるだけの存在になっている方も、ある意味では家族のためにがんばって生きている。家族のためにだけ、がんばって生きているのだと思える方もおられました。
「今の時代の一番大きな病気は、自分は誰からも必要とされていない,誰からも望まれていないと感じる孤独だ」とマザーテレサは言っておられます。この二年あまり在宅診療をやり、寝たきりの老人を見てきて、この言葉はつくづく核心を突いている発言だなあと感心させられます。このことを逆さからみますと、意識がなくても、今に死ぬと分かっていても、せめて生きていさえしてくれればと願う無償の愛があれば、その臨終の床にある方は、無上の喜びの中に人生の最後を生きることが出来るということです。決してつらい最後ではない。見た目にははなはだ苦しいばかりの闘病でも、自分の最後の存在を心から願っている人のために、がんばって、喜んで植物状態の生を生きてくれていると思わねばなりません。
つまり、静かに自宅で最後を迎えることは、死ぬ者にとっては尊厳に満ちた望ましいことに逢いはありませんが、それ以上に、生きることを望まれ、死ぬことを惜しまれながら死ぬことの方が、もっと満ち足りた最後だと思うのです。死ぬ舞台装置よりも、死ぬ者の心の内容の方が大事ではないかと言うことです。
孤独ではない、心に満たされたものさえがあれば、病院であっても、家であっても、どんな状況でもきっと幸せな気持ちで、死ねるのではないかと思いますが如何でしょうか。
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