「感染症に国境はない」ということは、近年、医療従事者が実感している事実である。二〇〇九年の新型インフルエンザパンデミックでは、最初の日本人患者はカナダで感染した輸入例であった。二〇一四年から現在も流行が続くエボラウイルス病(Ebola
virus disease:EVD)も流行地域以外の発生は輸入例であるし、二〇一五年、韓国での中東呼吸器症候群(Middle east respiratory
syndrome:MERS)アウトブレイクも発端例は中東からの帰国者であった。法務省入国管理局の資料によると年間一七〇〇万人もの日本人が出国し、一方で一四〇〇万人あまりの外国人が入国している。このような状況を鑑みると、輸入感染症への備えは常に必要である。
輸入感染症と言えば、やはりEVDやMERSのような一類・二類感染症、あるいは「熱帯病」と呼ばれるなじみが薄い疾患を想定しがちである。しかしEVDは患者の血液や排泄物の暴露が明らかな患者家族、医療従事者への感染しか起こっておらず、韓国MERSの二次・三次感染者の多くは院内伝播による限局的なものでありパンデミックにはならなかった。通常の仕事や観光目的の渡航者がEVDやMERSに感染する可能性はかなり低いと言える。海外で流行中の一類・二類感染症に関しては、指定医療機関以外を受診しない仕組みにはなっているが、疾患定義や流行国からの帰国者にどのような対応がなされているのかを知っておく必要がある。またその対応は流行の全体像が明らかになるにつれて変更されるので、最新の情報に注意を払う必要がある。
渡航者の感染症は熱帯病ばかりではない。二〇〇八年から二〇一四年までに奈良県立医科大学感染症センターで経験した輸入感染症一一一例の特徴を解析すると、発熱を主訴に受診した患者が七六例と最も多く、その患者の最終診断は旅行者下痢症(一八例)、インフルエンザ(九例)、デング熱(八例)、伝染性単核球症などのウイルス感染症(七例)、マラリア(六例)、腸チフス、A型肝炎、蜂窩織炎(三例)、チクングニア熱、尿路感染症(二例)の順であった。これを疾患構成別に分類すると、消化管感染症が最も多く、発熱疾患、呼吸器疾患、皮膚疾患の順になった。これは世界的にサーベイランスデータ(GeoSentinel surveillance)でも同様の傾向である。すなわち輸入感染症とは、「熱帯地域に限られた感染症」といわゆる「コモンな感染症」が含まれるのである。
どんな疾患にも共通することであるが、致命的であるか否かの見極めは非常に重要である。特にプライマリケアの第一線である診療所では、発症すぐの全身状態が良好な患者が受診し、その見極めは困難であることも多い。熱帯病の中で絶対に見逃してはならない疾患はマラリアである。マラリア患者の多くは発熱、頭痛、衰弱、関節痛、筋肉痛などの非特異的な症状を主訴に受診する。このため渡航歴が聴取されなかったばかりに、マラリアが重症化した症例やマラリによる死亡例を見聞きする。マラリアは治療可能な疾患である。患者は必ず渡航歴を申告するわけではないので、医療者側から積極的に問診し、Doctor’s delayによる不幸な転帰は避けたい。
マラリアに限らず輸入感染症の診療アプローチの第一歩は海外渡航歴の聴取である。渡航した国の情報から鑑別する熱帯病の数が絞られ、検査の優先順位がはっきりしてくる。さらに渡航目的や滞在期間、滞在地の環境(都市部か地方か)、気候、現地での活動状況を詳細に聞き取ることでさらに疾患が絞り込める。海外での感染症流行状況は検疫所のホームページ(FORTH http://www.forth.go.jp/)、さまざまな感染症の情報は国立感染症研究所ホームページ(感染症疫学センターhttp://www.nih.go.jp/niid/ja/from-idsc.html)を参照されたい。繰り返しになるが海外渡航歴のある患者であっても熱帯病とは限らない。コモンな感染症の鑑別も忘れてはならない。
輸入感染症の診療でもうひとつ不安になる点は感染予防策であろう。感染力の強さを表す指標にBasic reproduction number(一人の患者から感染して発症する二次感染者の平均値)があるが、MRESとEVDの数値はそれぞれ〇・七と一・七である。しかしインフルエンザでは七、麻疹では一七とはるかに二次感染者が多い。つまりコモンな感染症への予防策ができていれば、輸入感染症であっても恐れることはない。具体的には呼吸器症状のある患者・スタッフの咳エチケット、正しい防護具(マスク、手袋)の着用、手指消毒・手洗いの励行など日常の対策である。一類・二類感染症を診療する私たちの施設でも、基本的な感染対策の延長上に特殊な感染症への対策があると考えている。
渡航関連の感染症もワクチンで予防可能なものがある。渡航前のワクチン(トラベラーズワクチン)はA型肝炎、狂犬病、腸チフスなどが代表的であるが、定期接種に含まれる破傷風、日本脳炎、ポリオ、麻疹、風疹なども考慮したい。接種するワクチンの選択には渡航先、滞在期間、現地での活動状況、定期接種済みのワクチンの情報、さらには誰が費用負担するのかという情報が必要である。これらの相談に対応するのがトラベルクリニックであり、またワクチン予防できない疾患への対策、現地の医療情報の提供、留学に必要な健康診断、証明書の作成も可能である。各地にトラベルクリニックが開設されており、渡航前に活用していただきたい。(奈良県立医科大学海外渡航者外来ホームページ http://www.geocities.jp/tara0729/)
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