平成23年 4月 | ![]() |
最近四半世紀の医療政策を概観する | |
一九八五年六十五歳以上の人口比率が初めて一〇%台を超え、合計特殊出生率は一九八九年史上最低の一・五台となった。天理医史が出版された一九八四年(昭和五十九年)はこのような人口状況にあり、将来に待ち受けるいわゆる少子高齢化を予感させるものであった。事実、四半世紀を経て今日の最大の問題は正に少子高齢化であり、言い換えれば人口の減少と老齢化こそが現代日本の医療や福祉に切実な諸問題を引き起こしている。そしてこの問題を克服しようとして採られた医療政策が現在の医療分野に大きな摩擦と危機をもたらした。医療に限らず経済界における失われた十年(あるいは二十年)も人口減少が遠因と言える。 この章で振り返る昭和の終わりからの四半世紀は私達医師にとって正に激動の時代であった。その契機は一九八三年当時厚生省保健局長の吉村仁氏が主張したいわゆる医療費亡国論である。高齢化による医療費の増大は財政を圧迫し国勢の発展を妨げるとの誤った認識である。一九七〇年代には高度経済成長にのって老人医療の無料化が進められた。しかし保険財政の行き詰まりにより、一九八〇年代に無料化は廃止され、一九八四年医療費適正化のため医療法が改正された。被用保険者本人に1割負担が、また退職者医療制度創設などが公布された。同じ年、厚労省は将来の医師需給に関する検討委員会で、一九九五年を目途に医師の新規参入を一〇%削減するように具申した。さらに病床規制や在院日数制限なども新たに始まった。一九九七年被用保険本人負担が一割から二割に上げられた。 このような医療費削減の流れと共に、一方で老人に対する福祉政策の見直しが進められた。一九八五年老人保健審議会は老健制度見直しに関する中間意見を発表、社会保障制度審議会は病院と特別養護老人ホームの中間施設整備を提言した。一九九四年には療養病床群が導入された。併せて痴呆性老人対策推進本部を設置し認知症患者対策に早くから乗り出し、現在の介護保険によるグループホームの利用なども提言している。そして二〇〇〇年に介護保険制度が成立し開始された。医療と介護福祉の二本立て保険制度となった。この様な時期にWHOワールドヘルスレポート二〇〇〇で日本の健康寿命達成度が世界一との評価を受けたことは特筆すべきである。 世紀が改まって間もなく二〇〇一年小泉内閣が発足しいわゆる聖域なき構造改革が始まった。医療分野への市場原理主義の導入を目指し、株式会社参入、混合診療の解禁、医療機関と保険者の直接契約の解禁などがプログラムに上がった。また骨太の方針で高齢者医療費の抑制方針が決まり、以後二〇〇二年には診療報酬本体が初のマイナス改訂を受け、二〇〇三年には被保険者本人負担が3割に引き上げられるなど、医療費の増加分の一〇%を毎年抑制するという非常に厳しい医療敵対政策が続いた。 このような政策が原因なのか、あるいは医療を敵視する世論誘導が遠因なのか、二〇〇四年福島県立大野病院事件があり異状死問題が持ち上がった。この事件は後年に無罪結審となったが、医療行為に対する警察の直接介入という大きな脅威を我々医師に印象づけた。その後産科医や外科医の減少傾向を更に増幅させた。同じ年に新臨床研修制度が発足したが、研修医の偏在による医師不足という新たな困難を生じさせた。二〇〇六年には史上最大の診療報酬削減が行われた。このとき高齢者医療確保法が成立し、医療費適正化計画や療養病床の削減、特定健診の導入が決まった。 同年小泉内閣は安倍内閣に交代した。ここで地域医療の崩壊が叫ばれ始めて、国はこれまでの医師養成抑制策を転換、新医師確保総合対策で医師数抑制の閣議決定を見直した。再度交代した福田内閣では、基本方針二〇〇八で医療福祉サービスの質向上と効率化という矛盾した施策を掲げ、後期高齢者医療制度が発足した。この制度に対する国民からの批判の声は大きく、とくに後期高齢者診療報酬改訂で新たに設けられた末期相談支援料については反対が強く凍結することになった。同制度を根拠として始まった特定健診は二年後の実績で受診率三八%と低迷している。この間に医師養成数を一〇%増加するという方針転換が決まり、産科医療保障制度が始まり、医療安全調査委員会が構想されるなど改善の機運が高まってきた。 二〇〇九年衆議院選挙で民主党が圧勝し、茨城県全県で同党を推薦した医師会長原中氏が日本医師会長に就任した。発足した鳩山内閣は高齢者医療制度の見直しを明言し、第一回の改革会議を開催した。しかし現在に至るまで正式な改革案は出されていない。また折角構想された医療安全委員会も立ち消えになった。菅内閣に代わって、経済振興の視点から医療が議論されるようになった。そこで注目され始めたのが観光振興を目的とした医療ツーリズムである。これは小泉内閣が企図した株式会社参入と同質の発想である。経済効率からではなく、国民の安全を保障する重要な国家基盤としての医療という視点はない。地域医療の崩壊が目の前で始まっている。普通の医療をして採算の合わない公立病院が沢山出てくること自体、今の医療政策が誤っていることを明確に示している。この四半世紀、医療保険制度の変革は激烈であった。保険者本人の自己負担が〇%から三〇%に、老人の自己負担が〇%から最大三〇%に引き上げられても国民は従順な沈黙を守っている。近い将来に襲いかかる高齢化の荒波に身をかがめて耐えようとしている。 しかし日本医師会はこの激動に長期の見通しをもって対応する確固たる戦略を示すことが出来なかった。一九七八年日本医師会は第五九回定例代議員会において武見会長の十二選を承認した。翌年自民党政府の壊滅的行政を糾弾する 「健保改悪反対全国医師大会」が東京で開催された。財政調整廃案は利益追求第一主義の保険者への奉仕であり、指導・監査申合せ条項撤廃の国会動向は健保連の非合法活動を援助するものであるなどと主張した。これらは依然として現在にも大きな問題となっている。その後毎年のように健保改悪反対、老人保健法などと国の施策に反対し続けたが、いずれも成案通り承認されていった。 一九八三年日医では武見会長が引退し花岡堅而会長を選出した。しかし医療政策を政権与党である自民党の影響力に依存する形で実現しようとする日医の姿勢は全く変わらなかった。民主党政権に代わってからの日医の基本的な政治姿勢はやはり変わっていない。政権与党となった民主党が、医療の自由化につながるTPPについて、あるいは医療ツーリズムに代表される医療の営利性について前向きの姿勢を示したとき、これに正面から反対することは出来なかった。政権与党へのすりよりの姿勢は全く改まっていない。 このような状況の中でも日本の医療は新しい動きを見せていた。B型肝炎母子感染防止事業開始、エイズ対策本部設置、医師会生命倫理懇談会「脳死は人の死」とする最終報告、島根医大で国内初の生体肝移植、凍結受精卵で国内初の出産、らい予防法の廃止に関する法律成立、HIV訴訟和解、臓器移植法成立など大きな展開があった。また二〇〇四年ザイールでエボラ出血熱が流行したのに続き、英国の狂牛病禍、日本の腸管出血性大腸菌感染症流行、中国を中心としたSARS流行、世界的なトリインフルエンザ(H5N1)感染の拡大、そして最近の豚インフルエンザのパンデミックと、相次ぐ新興感染症に強い関心が寄せられるようになり、医療に対する行政の関与がますます大きくなってきた。 最近の数年は地域医療の崩壊が声高く叫ばれるようになった。我が国の医療を根幹で支えてきた地域の公的医療機関が縮小し閉鎖に追い込まれる事態が頻繁に起こるようになった。この最大の原因はこれまで見てきた国の医療費抑制策である。また日医も嘗て平成元年に医師養成抑制策を支持した時期もあった。国全体が医師養成に関する需給見込みを誤ったのである。現状は予想を超える高齢化で医療需要が急拡大し、供給側の医療労働人口も医療費もさらに拡大せざるを得ない状況にある。経営効率や営利性を度外視しても、最低限の社会保障としての公的医療機関の維持は国家の責任であるといえる。公的存在であるという意識をもって我々地区医師会も地域医療の支援に努力していかねばならない。
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