平成23年 6月
天理市休日応急診療所の歩み

 昭和四十七年十月宮城桃郁先生の後を受けて奥田善一先生が当地区医師会長となられ、この機に天医ニュースを創刊された。当時はまだ手書きの活版印刷で地区医師会活動への並々ならぬ情熱が感じられる。天医ニュース3号には、同年十一月十五日の理事会における奥田会長の思いが掲載された。
「休日・深夜における時間外の急患については、医師の不在を防ぐために、各市町村に休日診療所を作るべきだと、大阪府救急医療対策審議会で答申されたが、七日に岸和田、八日京都休日診療所が出来たことが報じられている。大衆の必要性を肌で感じ、経済援助と会員の協力により、休日診療所が出来ることが望ましいと思うが如何。」

さらに昭和五十二年九月の天医ニュース紙上、「休日・夜間における救急医療の問題点と天理地区医師会の構想」の中で、奥田会長は以下の所信を掲載した。「救急医療体制の基本は本来三次、二次、一次の順に整備されるべきである。(中略)二次、三次体制の確立は、単に一次救急医療を実施する医師会員の安全性を期待するものではなく、結局患者にとっての安全につながる事であり、之こそ救急医療の運営の円滑を期する重要なポイントであることを熟知せしめる必要がある。」「八月十七日には県衛生部長、県医師会長と理事、及び北和三地区(奈良市は一〜三次の体制を一応軌道に乗せて実施のため除外)の医師会長と各病院長との会合でそれぞれの立場から意見交換があり、その結果当地区の考え方と同様二次体制の確立が急務であること、また二次病院の北和圏輪番当直制も種々問題があり結論を得ないまま閉会した。」「天理地区の救急医療は地区内で体制を整えること、つまり市内A会員と市立病院の医師と合同で一次診療を、二次病院には当面市立病院及び市内救急病院、三次にはよろづ相談所病院を目標として構想を作る。」と私見を述べておられる。

このような動きを受けて、昭和五十三年三月二十五日対策会議があり、その結果市立病院外に休日診療所を設置する方針で市と合意した。同年四月一日に初めて休日における市民の医療確保のための休日応急診療体制が市立病院内において発足した。四月十九日これの適正で円滑な運営について話し合う機関として天理市休日応急診療運営協議会(運営協議会と以下略)が設置された。本会当初の構成は、市会議員四名、地区医師会員四名、学識経験者一名、消防署員一名、市の職員五名の十五名であった。その後に幾つかの変遷がある。

昭和五十三年五月十八日第一回運営協議会で、市が独立した診療所を建てる気がないなら、在宅輪番制でやってはとの意見あり、同年六月五日第二回、七月十日第三回と審議を重ねて、独立した診療所建設に市が同意なら協定書に捺印することと話がまとまった。七月二十五日の第四回協議会で遂に協定書に捺印の運びとなった。そして市側は十月初めから天理市役所内に仮診療所を開設との具体案を提示した。そして年内の十一月三日天理市役所庁内に休日応急診療所が発足した。診療日は当初から日曜と祝日及び十二月三十日から一月三日までの五日間で、診療時間は午前十時から午後四時までと現在の体制と変わりない。レセプト上は休日診療したものであるから、すべて休日初診の扱いとする。十一月三日から担当割り当てで、その四分の一は市立病院医師が担当する。医師、看護師、事務各一名が従事する。などの取り決めがなされ、十二月十五日から始められ順調な滑り出しであった。担当医には昼弁当が出され、委託料は手取り三万円当日支給とされた。

昭和五十四年三月十五日の天医ニュースには、同年三月に松井信子先生が担当した休日の診療記がある。「最初のこととて、様子が分かりかねて、前日藏本先生に電話をしてお尋ねをし、白衣と聴診器持参、午前十時前に出勤、看護婦さんに日誌を見せて頂きました。大体、いつもの日曜日ですと、七人から十人位、正月前後の休日、並びに連休の二日目は当然多くて、三十人以上も来られた日があり、また、小児科の患者が圧倒的多数のようです。(中略)今後、どのような方向に進むかわかりませんが、一般市民の方にとっては、休日に一応医療の開かれた窓口ですから、より良い方向に進めば良いと願って一日を終わりました。」

昭和五十四年五月の記事には、休日診療所は運営協議会でも好評であり四月より報酬が四万円に増額されるとある。昭和五十四年七月十二日天理市役所新築に伴う保健センター併設を視野に、既に開設されている橿原保健センターを、沢井、井上両副会長と鹿子木、勝井、吉田の三先生が見学した。昭和五十五年度から天医ニュースに半年間の休日応急診療所医師割当表を掲載し始めた。天理市保健センター建設が五十六年度に予定されたが、この施設は休日診療とともに、予防接種や夜間診療などを実施するものと合意された。昭和五十四年四月の記事では、同年四月から翌二月までの実績が詳細に表示されている。これを見ると受診患者数は一日平均一一・八五人であった。科別では小児科が六七%で、地域別では天理市の患者が八〇%を占めていた。ちなみに年間の患者総数は、昭和五十四年八一〇名、五十五年八七四名、五十六年九四〇名と漸増している。昭和五十八年二月二十八日運営協議会で、五十七年四月から五十八年一月までの実績報告が掲載されている。二月までの患者数八四六名、内七〇〇名が天理市在住者、月別では一月が最も多く二〇〇名、呼吸器系統が五二三人で最多、消化器一二一名、年齢別では六歳未満の小児科四七五名などで現在と大差ない。この年度の患者総数は九六四名、この内四名の歯科疾患患者が含まれていたことは興味深い。

翌昭和五十九年一月五日新市庁舎の西北隅に天理市保健センターが完成した。一階は待合いホール、受付、薬局、内科診察室、処置室、相談室、医師控え室、機材室などがあり休日応急診療所に当てられた。二階では予防接種や各種検診事業に利用された。昭和五十九年一月二十三日運営協議会が開催され実績表が提示されている。それによれば患者数四月から十二月まで六二二名で、疾患別は呼吸器疾患が三八〇名と最も多く、年齢別では小児科が三五八名と最多となっている。この頃の年間患者総数は、昭和五十九年度患者数一〇五六名。昭和六十年度一四二〇名、六一年度一四八七名と増加して推移している。前述五十九年度運営協議会の記事の前に、天理地区医師会、歯科医師会新年会についての記事が掲載されている。天理山辺歯科医師会支部長諸井英世先生と地区医師会長澤井利光先生の挨拶で始まったとある。この翌年から休日診療に歯科医師の参加が始まった。平成二年四月二十七日休日診療所運営協議会の記録では、医師会委員四名、市議委員四名、歯科医師会委員二名、薬剤師会、天理地区連合会、助役、総務部、市民部長、消防長、市立病院長、市立病院事務長の計十八名で構成されていた。その後この体制が長く続いた。

現在残されている資料から休日診療所のこれまでの実績をまとめておきたい。平成五年から二十二年までのものである。年間患者総数は一〇〇〇人余りで、一日平均患者数は十人代後半で推移している。天理市以外のからの受診者もほぼ一割強あり、県外から天理市に滞在していて受診した方達もかなりの人数があった。このことから当休日診療所の存在意義は大きいものと考えられる。年齢別では一貫して小児科の患者が半数を占めている。逆に六十五歳以上の高齢者は極めて少ない。また高齢者に特徴的な循環器や脳神経疾患が少ないことも注目される。この事実から市内の二次、三次病院に疾患の内容に応じて適切に搬送されていることが窺われる。疾患別ではインフルエンザなどの呼吸器感染症が圧倒的に多い。また消化器疾患ではウィルス性胃腸炎の流行が関係していると推測される。以上から小児の感染症を中心にした急性疾患の一次救急医療の機能を十分果たしているものと考えられた。(別表1)

平成十五年前後頃には総数が一〇〇〇人を切ることもあったが、最近はまた増加し特に二十一年度は新型インフルエンザのパンデミック流行で急増した。したがってこの年度では従来の体制を急遽変更し、流行期に医師二名、看護師二名の体制で対応した。また市立病院では数ヶ月間発熱外来を開設し時間外診療を行った。(別表1) このようにして最初の構想から実際の診療所開設までの地区医師会会員の献身的な努力が現在の安定した日常診療と、パンデミックの危機に実を結んだ。この間に平成八年九月九日救急の日、天理市休日応急診療所の活動に対し、当時の菅直人厚生大臣から大臣表彰が贈られた。当時の地区医師会白浜会長が厚生省に出向き、大臣から直接表彰状を授与された。この表彰状は診察室の上に掲額され我々の診療活動を見守っている。

平成三年四月懸案の休日診療所開院日について年末は二十九日からにするよう要望したが、当時の市民部長から「市条例の定ムル」ところは十二月三十日から一月三日までが休日とされるので、条例が変更されない限りこのままとなるとの返事であった。その後もこの件は放置されたままである。この年の運営協議会の委員構成は、市会議員四名、医師会から四名、山辺天理歯科医師会から二名、薬剤師会から一名、区長連合会一名、助役、総務部長、市民経済部長、消防長、市立病院長、市立病院事務局長の各一名であった。平成十七年度から市議委員は二名に、十九年度から医師会委員も三名に減員し、同年から市立病院長も委員から外れ、二十一年度から山辺天理歯科医師会委員二名も減員され、委員の総数は当初の十八名から、徐々に減員されて直近では十一名となっている。更に男女共同参画の上から、医師会委員の三名のうち一名は女性が担当することとなった。なお歯科診療はこの十年余りの間受診者数が一日平均一名前後であることを重視し、平成二十一年度から天理市当局の要請で廃止することとなった。同年度から前述のごとく運営協議会の歯科医師会委員の参加がなくなった。

運営協議会は発足当初から、他地区の休日診療所運営を調査し参考にしてきた。この流れを受け運営協議会の先進地視察が続けられ、運営協議会では休日応急診療において先進地とされる医療機関の視察が始まり、資料の残されているところでは、昭和五十九年鳥羽休日診療所、六十年春日井市健康管理センター、六十一年敦賀市急患センター、六十三年富士市、平成元年岡山市、二年豊田加茂、三年豊橋市、四年倉敷市、五年一宮市と続けられ、平成十年頃に終了した。一方運営協議会の構成は、歯科医師会、薬剤師会の参加を得て変更された。平成二年四月二十七日には医師会委員四名、市議委員四名、歯科医師会委員二名、薬剤師会、天理地区連合会、助役、総務部、市民部長、消防長、市立病院長、市立病院事務長の計十八名で構成されている。その後平成十七年度から市議委員は二名に、十九年度から医師会委員も三名に減員し、同年から市立病院長も委員から外れ、二十一年度から山辺天理歯科医師会委員二名も減員され、委員の総数は当初の十八名から、十七名に減員され、直近では十一名となった。

平成二十一年春から突然流行拡大した新型インフルエンザH1N1に対する緊急対策として、県の支持を受けた天理市立病院が五月から発熱外来を開始した。本格的な流行は十月に入ってからで、十一月初めから担当医師二人の診療体制にし、別表2のような分担を会員の自主的協力で実施した。同じ時期に市立病院も発熱外来を継続しており、両者の診療により大きな混乱をみることなくパンデミックは天理市でも終息していった。二十二年冬にも同様の体制がひかれたが、幸い殆ど実動することはなかった。こうして大きな試練を乗り越えることができた。天理市休日応急診療所はかなり先進的な時期に開設され、行政、歯科医師会、薬剤師会との熱心な協力により順調に運営され市民生活を支えてきた。この中核となった地区医師会の先人達から続いた医師魂を我々は誇りに思うものである。(表は省略)



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