乳がん―垂乳根 遠くなりにけり

奈良県医師会 西村 理

「垂乳根」は下垂(かすい)した乳房で、日本語の「母・親」に対する「まくらことば」と教えられてきました。しかし現代、日本女性から垂乳根が消えつつあります。ある下着メーカーが「最近の日本人女性に垂乳根が少なくなり、この状況に女性用下着の普及が貢献している」とコメントしていると伝え聞きました。

つい半世紀前までの日本は多産・多死の時代で、高い乳児死亡率を多くの出産で乗り越えてきました。さらに、産後に母乳の出が悪い場合は「もらい乳(母乳がよく出る女性に授乳してもらう)」により地域で子育てを支援する風習があった、とされています。垂乳根は過酷な時代を克服してきた女性たちへの、最大級の敬意の表現と言えます。

戦後の生活スタイルの西欧化は、乳児死亡の著しい低下、児童生徒の体型向上に貢献しました。一方で、成人には生活習慣病と悪性新生物(がん)の増加を突きつけたのです。日本人女性の乳がんに限れば、発生率はいまだ西欧ほどではありませんが、増加の一途にあります。その発症のピークは50歳前後で、欧米の乳がん発症に比して若く、「人生これから」の時期と言えます。2005年の推計で、日本女性のがんの中で乳がんは罹患数第1位、2008年の調査では死亡数第5位で、数は多いですが治るチャンスもあると言えます。

乳がん治療は長足の進歩をとげ、手術以外にも化学療法、内分泌療法などの有効な治療法があります。また手術の場合も、部分的に切除するなど、乳房やリンパ節を温存する手術ができるようになりました。しかし、このような手術を安全に行える対象は、腫瘍が小さく(3㎝以下)、リンパ節転移がない場合であり、早期診断の意義は失われていません。

乳がん撲滅の運動が広がり、「マンモグラフィー検診」による早期発見と早期治療に期待がかかります。しかし、検査は万能ではなく、毎月の「自己検診」(ピアノのキーを押す要領)、「予防」(成人病予防に準じる)は乳がん撲滅の3点セットと言えます。

乳がん発生の危険を下げる因子として「授乳」が確実視されています。垂乳根の女性たちの生活すなわち「豊富な授乳」と、それを可能にする「子育て支援」に予防のヒントがありそうです。